「どうしてそんな話をするの、変な人」彼女が笑いながら身体を寄せてくる。ひんやりした肌が気持ち良い。少し酔ったかもしれない、確かに変なことを言っている。昼にイントラロムスへ行ってサンティアゴ要塞を見てきた。日本軍が使った水牢や銃撃の跡が残る建物、ホセ・リサール記念館などの印象が強くて感傷的になっているのだろうか。

旅のお勧め マニラへ行ったらイントラロムスへ行こう
サンティアゴ要塞の城壁に咲く花は赤く、南国の日差しの下で輝くようだった。ここへは初めてやってきた。そもそもフィリピンにあまり来たことがない、まして太陽が照りつける日中にマニラ市内を観光をすることは無かった。今日は友人に誘われてしぶしぶ来たが、誘った本人は暑いからと入口の涼しい場所で待っているという。だから一人で歩いている。
公園は、日本軍の銃撃の跡が残る建物があって心が痛むが、殆どは過ぎ去ったスペイン統治時代のノスタルジックな雰囲気の場所である。要塞の歴史は1571年スペインがマニラを統治したときから始まる。最初の要塞は木で築かれた。その三年後に大海賊団に襲われる。
海賊は、中国人の林鳳が率い攻撃部隊の大将を日本人倭寇が務める大集団だった。スペイン軍は倭寇1500人を中核とした海賊に追い詰められ、要塞は隣接するサンアウグスティン教会と共に焼け落ちた。窮地に陥ったスペイン軍だったが、優勢な火力と海賊の大将の戦下手に助けられて逆襲し最後に勝利する。要塞は焼け落ちた教訓から石作りで再建された。

500年前からグローバル都市だったマニラ
その城壁に佇むと、500年前、ここでスペイン語、中国語、日本語、タガログ語の怒声が飛び交う戦いが行われたのが嘘のように静まり返っている。戦いの舞台のバシック川を眺めながら当時に思いをはせると日本人がここまでやって来ていたのに驚く。
マニラには小さいながらも日本人街があり明との交易を行っていた。スペイン船が来る頃になると交易は益々盛んになり、日本やアジア、ヨーロッパの大型商船が行き交うようになる。村人の商売も盛んになったことだろう。
綺麗なフィリピンの娘が果物を小舟に積んで停泊する大型船に売り込みにやってくる。「新鮮な果物はいりませんか」笑顔が輝く「それ、買った」と日本人船員がすかさず声をかけると「なんで私から買わないのさ」それを聞いた中国人のおばさんが怒る。「決まってるだろ」とスペイン人が冷やかし、色んな国の船員が色んな言葉で囃してどっと笑う・・・そんな光景があったかもしれない。
商売は、言葉や服装、髪型に関係なく自由に行われていた。もし江戸幕府が鎖国をしなければ東南アジアや日本の未来は変わっていたかもしれない。アジア各地の日本人街は大きくなり地域経済を発展させる。アジア各国は経済力と日本の国力を背景に西欧列強の植民地になるのを防ぎ、その結果太平洋戦争は起こらなかった。そんな妄想をする私に、要塞は「歴史に「たら」はないよ」と言うように静まりかえっていた。

モテ男ホセ・リサール
サンチャゴ要塞にフィリピン独立の英雄ホセ・リサールの記念館もある。その側に立つ銅像は本を手に持ち、英雄というより学者が大学で講義を行っているようだ。事実、彼は勇ましい英雄タイプでなく優れた学者らだったらしい。特に語学に優れなんと20カ国語を話せたという。
彼は、中国の殷(酒池肉林で悪評)を倒した商の武王の弟の子孫の祖父、がフィリピン女性と結婚してできた父親と、日本とスペインの血を引く母、から生まれた国際的な血統の人物だった(ややこしい)彼はヨーロッパに留学中していた26歳のときに小説「ノリ・メ・タンヘレ(我にさわるな)」を書く。その小説はフィリピン独立運動に大きな影響を与えた。
そのためフィリピンを統治していたスペインから睨まれ、帰国するが命の危険を感じ再びヨーロッパに渡る。旅の途中にトランジットで日本に立ち寄り、その短い時間に日本女性をナンパする(されたのかもしれない) 彼はエキゾチックな顔立ちで隨分モテたらしい。
イケメンで金持ちはいつの時代でもモテる。相手は「おせいさん」と呼ばれる元旗本のお嬢さんだった。恋に落ちた二人は歌舞伎見物や箱根旅行を楽しみ滞在は二ヶ月近くに及んだ。時は明治21年、東京を歩く国際的なカップルはさぞかし人目を引いただろう。
おせいさんの親は、彼がスペイン公館に泊まるほどの階級の青年とはいえよく付き合いを許したものだ。「旦那様、せいこが殿方とお付き合いしてるようですのよ」「せいこも年頃だろう。世は明治だ、時代は変わったのだよ」「それがね、お相手の方は、外国の方らしいの」「・・・」
リサールはこの愛を誰にも語らなかった。処刑された後、日記帳にはさまれたおせいさんの写真が見つかり分ったのである。おせいさんは別れた後も独身を続けたが、彼が亡くなったのを聞いて英国人と結婚した。彼女は80歳で亡くなり東京の雑司が谷の墓に眠っている。今でもリサールの命日にフィリピン大使館からお花が供えられるらしい、粋だねぇと言いたいところだが、お墓のなかで旦那さんも一緒ならまずいのじゃないの、余計なお世話だけど。
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旅の教訓 近代の歴史と政治の話はやめよう
それから133年が経過して、たくさんの日本人がフィリピンへ旅するようになった。ニノイ・アキノ空港の入国審査場では父が日本人母がフィリピン人の家族をよく見かける。たくさんのフィリピン女性が日本人男性と結婚しているから妻の里帰りだろう、夫がみんな優しそうなのが微笑ましい。
日本人とフィリピン人は相性が良いのだろうか。それとも太平洋戦争でひどい目にあわされた憎しみを隠して付き合ってくれているのだろうか。そうではないと思いたい。日本人とフィリピン人はともに海洋民族である。古い時代から国境を気にせず海を行き来する遺伝子を持っている。だから自然に交流できるのだ。
「日本は戦争のとき酷いことをしたでしょ。それなのにフィリピンの人たちは優しいじゃない」と重ねて聞く。「そんな昔のこと誰も気にしないよ。悪いことなら韓国も中国もアメリカもみんなした、それよりしないの?」彼女は更に笑う。押し付けられる乳房の弾力が凄い。
「そんなことばかり言ってたら嫌われるよ」と私のものに手をのばす。「元気にしてあげる」とゴムを被せてくれる。生でないのは我慢しなくてはいけない。自衛隊は今でもヘルメットを鉄帽と呼ぶのを思いだした。

小柄な彼女は笑った
「また考えてる」と笑いながらおおい被さってくる。小柄だから重さの具合がちょうど良い。「そんなこと今考えてどうするの、関係ないでしょ」根暗な日本人は明るい彼女たちに敵わない。彼女は私の上で陽気に笑った。過去はどうあれこだわり続けても何も解決しない。私達は今に生きているのだ。彼女はマカテのゴーゴーバーから5000ペソでやって来てそれを教えてくれたのだった。

マニラに乾杯、いや彼女に完敗である、もう我慢できそうにない。
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