「それ危なかったね」と彼女が背中から胸に手を回してくる。窓に100万ドルの夜景が広がっている。この豪華さは香港ドルでなく米ドルなんだろうなと考える。「香港は日本人が行けない店があるよ、怖い人がいる」手が胸からお腹へと下がってくる。「私のお店は安心」と笑う。心地良い息が耳元にかかった。

彼女は夜総会のホステスである。たいていの男が虜になるような良い女だ。美貌はもちろん、なんとも言えない柔らかい身体をしている。私なんぞがこのような女性と知り会えるのは香港だけかもしれない。来てよかった・・・
香港の都市伝説と九龍城塞
香港は仕事以外で来たことがない。少年の頃読んだ香港の都市伝説が恐かった。ネイザンロードのブティックで日本女性が試着をしようとすると試着室の壁が開いてさらわれてしまう。彼女は数年後に発見されるが、手足を切断された達磨のような姿になっており性の道具にされていた。蝋燭台にされる女性もいる。
金持ちの日本人旅行者が夜な夜な街から消える。彼らは九龍城塞へ連れ込まれて、身ぐるみを剥がれ臓器売買や漢方薬の材料にされてしまう。九龍城は英国でもなく中国でもなくて、香港警察が手をだせない権力の空白地帯だった。違法建築で積み上げられた建物は一年中陽の光がささないラビリンスであり、そこに多くの人が住んでいた。

ミノタウルスこそ居ないが、青龍刀を持った辮髪の殺し屋や犯罪者、得体のしれない人たちが棲んでいる。人に言えない邪教な儀式も行われているらしい。普通の人が迷い込んだら二度と出てこられない。黒社会が本拠をおき、麻薬犯罪や人身売買あらゆる犯罪の司令塔になっている魔窟だ。
清朝時代からの黒社会が支配し犯罪者が跋扈する九龍城塞、そんなところがある街には怖くて行けないと子どもの頃からビビっていた。これはあくまでも私だけのイメージで、実際の九龍城塞は国家権力からドロップアウトした人たちが暮らす自治体であり自由なコミュニティだったらしい。勝手に魔窟にしてごめんなさい。

香港はグルメの街である
関空を飛び立って4時間強で香港国際空港が見えてくる。以前の啓徳国際空港はビルの谷間を飛び、屋上の白い洗濯物をかすめる迫力満点の飛行場だった。黒々とした闇を抱える九龍城砦も見えた。今そこはアッケラカンとした公園になっている。あそこの住人たちは一体どこへ行ってしまったのだろう。
そんなことを思っているうちに飛行機は着陸し、入国審査をおえてエアポートライナーで香港島へ行き尖沙咀へ向かう。エアポートライナーパスは350HK弗でMRTが3日間乗り放題になる。今夜のホテルは香港尖沙咀凱悦酒店(ハイアットリージェンシー )だ。サラリーマン根性丸出しのオヤジは出張のときは高いホテルに泊まるのである。
今日は現地の営業マンがホテルへ迎えに来てくれる、ここでは佐藤君としておこう。夕方、ロビーに降りると彼が待っていた。「こんちは佐藤です、今日はこれから・・・」と早口で喋りだす。さすがにいつも中国人とやりあっているだけにアクが強い。海鮮料理を食べてその後で飲むらしい。
香港は古い中国が残っているので料理が美味い。戦後の混乱の際に中国各地から人が流入したので、広東だけでなく上海や北京など色んな料理がある。イギリスに統治され、アジア貿易の金融ハブだったから欧州の料理やスィーツも豊富である。とくにパンは美味い。

海鮮料理が美味い
都市伝説の闇と対象的に昼の文化と料理は輝いている。なかでも南シナ海で取れる魚やエビは絶品である。フカヒレや干しアワビ、伊勢海老、燕の巣など中国人の食のこだわりに感心する。フカヒレや干し鮑は、明や清の時代から日本が輸出していた。中国人は生より一度干して戻すと旨味が増すのを知っていた。さすが4000年の歴史である。他の料理が安いせいもあるが干し鮑や海鼠の値段の高さに驚く。
「それでは、行きますよ」佐藤くんの車で(といっても運転手がいる)西貢海鮮街へ向かう。海鮮料理店や屋台が集まっている場所だ。バスが香港の中心から15分に1本くらい出ている観光地である。「今回は洪記海鮮酒樓にいきます。有名店です」と車を降りてどんどん進んでいく。
店には大きな水槽があって色んな魚や貝や蟹が入っている、シャコもいる。長く舌を伸ばした貝はなんだか卑猥である。佐藤くんは水槽を指さしながら「かもさんは指名が得意と聞いてますよ、早く選んでください」と意味深なことをいう。「小娘はこんなにいないよ、リトル・マーメイドじゃあるまいし、貝は一杯いるけど」上海で800人の小娘を見たのを思い出した。

水玉模様のハタと蟹を選んで後は彼に任せる。彼は「ビールは青島ビールで、蟹は花彫雞油蒸蟹(花蟹の紹興酒蒸し)魚は清蒸で海老も焼売は先にね」と中国語で頼んでいく。こいつは中国人か。「フカヒレや鮑は頼まないの」「それはお客様用ですね」「早くビール持ってきて」と取り付くシマがない。
花蟹の紹興酒蒸しは、紹興酒とクリームソースのえもいわれない香りがする、蟹の身をソースに浸すと味が際立つ。ハタの清蒸は身がホロリと崩れ、弾力のある白身が中華風の出汁とよくあって美味い。旨いのだが醤油をかけたい。
店内は観光客が多いようだが、中国人の大きな声も聞こえる。中国らしい雑踏感が悪くない。料理はどれも美味かった。香港の海鮮はいける、蟹料理は南に行くほど美味しくなるようだ、シンガポールにスパイシーな蟹料理が有るがこれも美味しい。

夜総会へ出発 香港の夜は夜総会とピンポンマンション
彼はよく食べよく喋る「さぁ、次へいきましょう」とエネルギッシュに宣言する。「どこへ」「夜総会ですよ、もちろん夜総会」夜総会は、ナイトクラブであるが銀座にあるのとは違い、ショーを見ながら美女と飲める本格的なクラブと、キャバクラとカラオケが合体した日式KTVがある。
夜総会はナイトクラブも日式KTVもホステスとの一夜限りの恋愛ができる。香港は上海や広州と違って売春禁止法がないので合法である。ただ決まった場所での斡旋は禁止されているので、ソープやファッションヘルスのような箱型の経営はできない。
ただ、斡旋は駄目でも女性個人が部屋を借りて営業するのは沒問題になる。それを活かしたのが「141」ピンポンマンションである。香港の法律から生まれた形態といえる。日本で作られる「カスミ網」は、法律で製造販売は許されるが、その網を使って鳥を捕獲するのは禁止されている。使っていけないなら、作るほうを禁止すれば良いが法律はときに奇妙になる。
お腹が一杯なのでくつろいでいると「早くいきましょう」と彼がせっつく。ほんとは人をダシにして自分が行きたいのじゃないのか。香港の繁華街は尖沙咀(チムサーチョイ)旺角(モンコック)銅鑼湾(コーズウェイベイ)あたりだが、連れて行ってくれるのは尖沙咀にある会社御用達の店らしい。

店に着くとかって知ったるところらしくドンドン入っていく。女性たちのレベルはとても高い、中国本土より高い。南アジアや欧米の血の入ったような小娘もいる。そのなかに小顔で手足が長く指のきれいな娘がいた。杏形の瞳にショートカットの黒髪が良く似合っている。胸は大きくないが綺麗な形をしている。これに・・・
佐藤くんは席すわると「飲み代は僕が持ちますけど、後は自分でお願いしますね」と大きな声で宣言する。「香港は高いよ、会社で落とそうよ」「高いから駄目なんですよ、公私混同は駄目です」と厳しい。「まぁまぁその話は後で」とママがわかってますよと笑顔を向けてくる。彼女も「飲みましょ」と指を絡めてくる。これに弱いのである、彼女の薬指から私のあそこに紅い糸が繋がったようだ。
ということで後の話はシステマチックに終わった。飲み代が一人900HKD 愛の紅い糸が1800HKD、チップが200HKDだった。これは相場より少し高いようだ。全部で2900HKD、43000円くらいになる。彼女は後でやってくるという。
夜総会は飲み台がけっこう高い。「いい店だったでしょう。でも気をつけてくださいね。香港には日本人が行けない危ない店がけっこうありますからね」「歌舞伎町の15倍くらい危ないですよ、知らない店はだめですよ」・・・そう気をつけないといけないのだ。

旅の教訓 行ってはいけない店に注意しよう
随分以前になるが香港で怖い目にあったことがある。ある夜、会社の同僚と二人で尖沙咀でしこたま飲んで酔った。酔っ払いの話しは「香港97」という当時あったグラビア雑誌になった。香港版ハスラーやプレイボーイというべき無修正の雑誌だった。
グラビアは、中国系、マレー系、白人とのハーフ、巨乳、美乳とバラエティの富んだ構成になっていた。美女たちは街や砂浜やジャングルでポーズをとっている。日本女性にない艶やかさと、なにかしらみんな柔かそうだった。雑誌には高級クラブの広告が掲載されていい女ばかりが映っている。そんな話すれば店に行こうとなる。
同僚がさも知ったように一軒のKTVに入っていく。店に入ると少し違和感を感じるが、酔っぱらいのノー天気の日本人サラリーマンである、個室に入って女性を指名してさっそく歌い始めた。その頃の日本人は葱を背負った鴨である。

旅の教訓 危ない時は逆らってはいけない
気前よくチップや飲み物を奢っていると女性たちものってきた。どこを触っても笑って許してくれる、女性も触ってくる。これは次もあるね・・・と思ったときドアがノックされた。女性たちが一瞬緊張したように見えた。
なんだろう。ドアが開いてマネージャー入ってくる。「お客様、もう少しお静かに、他のお客様が迷惑と仰っているので」「カラオケを歌いに来て静かにしろとは何だよ」同僚が珍しくもっともなことを言う。女性が目でそんな事を言っては駄目と合図を送ってくる。
これはまずい、同僚が更に言おうとするのを止めて「センキュー、マイタン」言った。冷や汗が出てくる。マネジャーはホットしたように頷いて出ていった。ドアが閉まるとどっと汗が吹き出す。「ここはお前の店やろ」と聞くと「いや始めてやで」と事もなげにいう。
やっぱりだ。「お前らしくなくおとなしいやないか」彼は訝しむ。そう私は自分らしくなくなるような怖い物を見てしまったのだ。ドアが開いたとき、マネージャーの後の廊下に、上半身を薄暗い照明に溶け込ませて二人の男が立っていた。手を前に組み部屋の中の私たちをじっと見ている。
手の甲にあるのはタトゥーようだ。顔は判別がし難いが全く表情がない。無表情な目でこちらをじっと眺めている。どう見ても堅気の雰囲気ではない、ひょっとしたら黒社会の人かもしれない、やめてよと酔いがいっぺんに覚めた。

旅の教訓 危険にあう原因は自分にある
小娘は「ここは日本人は来ない、お客さんの日本の歌が気にいらなかったかも」「前にもあった」というが「あれは怖い人なのか」と聞くと口をつぐんでしまう。やっぱりそうなんだ。そうなるともう早く帰りたいばかりだ。ドアの向こうに二人が待ち構えていたらどうしよう。
恐怖の時間だったが、ぼったくられることもなく会計は終わった。店を出ると後ろを振り返らずひたすら歩く。店が見えなくなってやっと話す余裕ができた。「おまえの知ってる店やと思ったんや」「お前が普通に付いてくるから知ってる店やろうと思った」お互い相手が知っていると思い、入ってはいけない店に入ってしまった。
香港の街は日本人向けと香港人向けの店が混在している。現地向けの店は黒社会の経営しているところがあり幹部たちがやってくるらしい。そんな店には決して足を踏み入れてはいけない。それなのに入店して日本語の歌を大きな声で歌った。それを聞いた幹部が腹を立てた。「リーベンクイツがいるのか、始末してこい」「へい」だったのかもしれない。それ以降、駐在員が行く店以外は行けなくなった。ほんと怖かった。
男たちのオーラは強烈だった。韓国で同じような目に遭ったがそれよりも数倍怖かった。彼らはその気になれば、無表情で私たちを切り刻んで豚の餌にしたり簀巻きにしてビクトリア湾に沈めただろう。その現実感があった。私の記憶にある「繁華街で消える日本人の都市伝説」が上書きされた。
ただ小娘は可愛かった。逃した魚は大きかった。危険なところに美女がいるのは世界共通である。だがそれを諦めるのが小人の知恵というものだ。

正しく遊べば、素敵な成果が待っている
バスタオル姿の彼女がベッドに誘う。香港97の流れる滝でヌードになっていた女性に似ている(そんなの誰もわからない)ビールをテーブルを置いて横になると柔らかい身体が触れてくる。彼女の瞳は怪しく輝き妖艶さが増しきた。彼女はもしかしたら九龍城塞にいた女妖かもしれない。香港の闇に飲み込まれてしまう。もう駄目だ、でも気持ち良い。
香港は中国文化の爛熟が残っている。中国に返還されてから政治的な締め付けが厳しくなり変わりつつある。魔窟九龍城砦は消え去った。風俗もまた中国本土のように取締りが厳しくなるに違いない。
文字は簡体字になるのだろうか。簡体字はなんとなく味気がない。毛筆の流れがなく陰影が乏しい。香港は繁体字が多い。百花繚乱の繁体字の看板が輝く繁華街こそ本来の中国である。その陰で怪しい営みが繰り返される都市伝説の街のままで居て欲しい。

激しい時が終わり、彼女の横顔を見ながらそんなことを思う。加油、香港である。
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