俺は海賊王になる。私は十分に長生きした大人だからそんなことを叫んだりはしないが、ここ淡水の紅毛城の庭から見る光景はこの台詞を思い出させるものだ。今から400年前、欧州から遠く波濤を超えてここにやって来た荒くれ男たちがいた。彼らは海賊ではなかった。だが一攫千金を狙う姿は似たようなものだったろう。

旅の教訓 淡水の紅毛城は古きヨーロッパを感じて良い所
紅毛城はもとは要塞だったが今は観光名所である。その庭で、俺は海賊になる、などと言っているオヤジは日々の生活に追われる単なる庶民である。そんな平凡なオヤジでも港街に来ると心がざわめく。ただそれは港があるだけの街では起こらない。東京や大阪は港があるがケミストリーは起こらない。横浜や神戸のような街でないと駄目なのだ。
外国人が突然やってくる。その外国人相手の飲み屋ができ、酌をする女性の嬌声が響く。怪しい人間が流れ込み夜な夜な喧嘩起こる。そんなことがあった街でないといけない。やがて日本文化に西欧と中国の文化が入り込み融合していく。たくさんの船が港に浮かび、古い建物や赤レンガ倉庫があり、良い香りのするパン屋や中華街がある。大航海時代に開港された歴史がないとオジさん心は萌えないのである。

淡水も中国のなかに西欧の気配が漂う街である。駅から海に向かう道沿いにたくさんのレストランやスィーツの店が並んでいる。つさっきまでたらふくビールをのみ、小娘に「また来てね」と送りだされたのもその一軒である。その後ブラブラと紅毛城までやってきた。海賊ではないが外国人は誠に気分が良いのである。
おっさんならば海鮮料理とビール、若い女性ならスィーツ、海沿いにおしゃれな店もある。有名な中華飯店もある。たいへん賑やかな街だが一時期寂れたことがある。日本統治時代、港に土砂が堆積して大型船が入れなくなったために基隆が主要港になり淡水は寒村に戻った。
それがMRTが淡水まで伸びたことで一変した。日帰りができる観光地として蘇った。台湾の人だけでなく外国人観光客がいっても楽しい街になったのである。その人気の一つが西洋人が残した建物だった。

悲運の英雄 鄭成功
淡水は台湾原住民の平埔族ケタガラン族が住んでいた。そこへ最初にやってきたのはスペイン人だった。彼らは1624年にマニラから着くとサン・ドミンゴ要塞を築いた。1642年になるとオランダの東インド会社がやってきてその要塞を奪う。要塞はオランダ人の髪が赤いことから紅毛城と呼ばれるようになった。
1661年に国姓爺・鄭成功がオランダを台湾を追い出す。彼は台湾を明朝再興の拠点としようとしたが、1683年志なかばで没し台湾は清朝の領土になった。清の末期の1860年、淡水は北京条約によって条約港として開港された。紅毛城はイギリス領事館になり、街に各国の商館が置かれた。淡水は19世紀後半に台湾最大の港湾都市になる。横浜や神戸と同じ匂いがする所以である。
鄭成功は東アジアの英雄である。彼は福建省泉州府の父鄭芝龍と日本人田川マツの間に肥前国松浦郡の平戸で生まれた。ハーフでそのうえイケメンだった。彼は7歳のとき父と中国へ帰り幼い弟は母と日本に残る。弟は田川家を継いで七左衛門を名乗った。七左衛門はのちに長崎で商売を始めて財をなし兄を援助することになる。
中国に戻った父と成功は明朝復興のために奮闘する。隆武帝はその活躍を喜び国姓である「朱」と「成功」と言う名を彼に送った。恐れ多いと朱姓は終生使わなかったが、皇帝から姓を贈られたことは有名になり国姓爺と呼ばれるようになった。
洪武帝は清朝打倒のため南京攻撃を行うが敗北し、鄭成功は台湾を復興の拠点とした。それ以降、台湾が西欧列強の植民地になることは無かったのである。

「南無三、紅が流れた」 歌舞伎になった国姓爺
江戸時代は鎖国と日本文化が注目されるが、東シナ海や南シナ海沿岸の世界はダイナミックに動いていた。明の再興に奮闘する兄と武士の家系を継ぎ兄を支援する弟、眉目秀麗な日中ハーフの兄弟の生涯は「七難八苦を与え給え」と尼子氏再生に努力した山中鹿介や主君に尽くした「忠臣蔵」と同じ日本人好みのストーリーである。
そんな兄弟を日本のエンタメ業界は見逃さない。浄瑠璃、歌舞伎の戯作者、近松門左衛門は、鄭成功を主人公に浄瑠璃「国姓爺合戦」を書いた。明を復興させようと奮闘する兄弟と妻の物語は鎖国下にある日本人に大いに受けた。江戸時代の日本人は海外のことを良く知っていた。
鄭成功は劇中では和藤内という人物になっている。「和(日本)でも藤(唐)でもない」の洒落である。国姓爺合戦は日本中を熱狂させ17ヶ月連続のロングラン公演になった。その勢いから物語は歌舞伎になり市川團十郎のお家芸になり現代に続いている。
見所は、劇中の妻である錦祥女の流した血が川に流れ、和藤内が見る場面である。「紅流し」と呼ばれる荒事風の舞台である。「南無三! 紅が流れた!」和藤内が被っていた笠を脱ぎ捨て、石橋の上で大見得を切ると、観客は大喝采した。外国の話をエンターテイメントに仕上げる、江戸時代の業界関係者も観客もグローバリストだったのである。

鄭成功を偲ぶ場所、平戸、台湾、厦門
鄭成功は日本と中国と台湾を股にかけて活躍した武将にふさわしく、彼を偲ぶ施設は日本は長崎県の平戸、中国の福建州の厦門、台湾は台南市ある。亡くなった当初は清に遠慮して「開山王」として祀られた。山は台湾を指し開山は台湾の開拓者の意味である。1875年清朝によって正式に延平郡王祠とされた。
西欧列強がアジアの植民地化を進め、中国大陸では明が滅び清が台頭する、日本は戦国時代が終わり江戸幕府が日本を統一した、そんな激動の時代に活躍した悲運の武将を尋ねる台湾の旅もよいかもしれない。
ただ、実際の鄭成功は厳格すぎて冷酷なところがある人物だったようだ。降伏したオランダ人女性や子供を解放せずに自分の部下に与えたり、激昂して村を滅ぼしたこともある。自分もオランダ人司令官の美人妻を愛人にした。きっちり、とういうよりちゃっかりである。その性格は厳格な日本人の母に育てられたせいと言われた。当時から日本人は堅苦しい。
女性を貰えなかった兵士が羨んで言った言葉がある。「あいつらはいいな。五月蝿い中国人の妻を貰わないで良いのだから」中国人女性は昔から怖かったのである。オランダ人女性たちにとっては大きな災難だったが。

鄭成功は、中華民国の国父孫文、初代中華民国総統蔣介石と並んで台湾の「三人の国神」として尊敬されている。この歴史にあるように台湾と日本は近い国である。台湾を旅すればそのような史跡にたくさん出会う。夜の友好だけでなく仲良くしたい国である。
 
 



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