人はいろんな経験を積んで大人になっていく。これは自然である。老人の方が若者より経験の数が多いのは道理である。人は経験を重ねると賢くなる。老人は賢いので若者はその意見に従うべきである、これは正しいのだろうか。経験はメモリーに書き込まれたデータのようなものだ。いくら沢山あっても使えなければ意味がない。

経験は知恵に変わって初めて役に立つ
サトウカエデの薄い樹液を濃縮すると甘いメープルシロップになる、ブドウのしぼり汁を発酵させて美味しいワインを作る。ひと手間がけて初めて使える物は多い。経験も同じで知恵に変えるひと手間がいる。そのひと手間はなんだと言われると困ってしまう。
しかし存在するのだ。無い知恵を絞って考えると、集めた経験と本や色んな媒体から得た知識、親や他人から聞いた教訓を脳と言う樽にいれてじっくり発酵させる。そのとき感動というスパイスを入れないと味が締まらない。
そうか、お前がよく分かっていないのは理解できた。ではお前の経験はどうなのだ。メープルシロップのように甘くなっているのか、ワインのように発酵しているのかと問われると再び困ってしまう。発酵どころか腐敗している疑いが常にあるからだ。
発酵と腐敗の境界はあやふやだ。どちらも、細菌やカビや酵母などの微生物のなせる業である。人間にとって有益な物質、つまりチーズや納豆や漬物、酒や味噌を作ったら発酵、その逆に有害な物質、アンモニア、硫化水素などの悪臭成分や毒素をつくれば腐敗になる。
その差は美味いか不味いか、お腹が痛くなるか。ならないかだが、同じ物でも美味いと思う人が居ればそうでない人もいる。お腹だって丈夫な人がいる。その境界は微妙である。そんな差は色んな所に現れる。私のXのポストは「良いね」が殆どつかない。人の役にたたないのだ。私の経験は醗酵ではなく腐敗してるのだろう。悲しいことだが。

海外で役にたつ経験
それでも経験が知恵に変わっていると思うときがある。社会の底辺に生まれて家を出るまで、日に焼けたおっちゃんが昼から陽気に酔っ払いパンチパーマのおばちゃんが働かない旦那を叱っている、そんな世界で育ってきた。学歴、高い靴、海外旅行なんかは関係ない。昼にコップ酒を一杯、夜に酔っ払えば幸せがやってくる。私はその日暮らしの気楽さを知っている。人は上昇志向を持たなくても生きていける。
そんな子供が行くのは底辺高校と決まっている。クローズの鈴蘭高校まではいかないが全く違うとも言えない。真面目に勉強しようとしたらイジメとカツアゲの餌食になる。サバンナの草食動物と同じである。教師だって油断できない。帰り道に覆面をした不良に襲われる。「国語に赤点をつけたのはお前だろう」覆面をしても質問と声でわかるだろうに。
ある日、学校に黒いヘルメットに黒いライダースーツの二人組がやって来た。750に乗ってだ。ドッ、ドッ、ドッ、大型バイクの排気音が校舎に響く。生徒たちが集まり訝し気に見つめる。一人の教師が近づいていく。二人がバイクのエンジンを切ると周囲は静寂に包まれ緊張が高まる。
緊張が頂点に達したとき、二人の手にふいに鉄パイプが現れ教師に殴りかかる。お前は工藤明彦かと思う間もなく校舎の隅々から生徒が溢れ出して二人組を覆ってしまった。インディ・ジョーンズ、クリスタルスカルの軍隊蟻である。学校というよりジャングルだ。そこで少年は生きていくために掟を学ぶのである。目立ってはいけない。危険には近づかない。
敵は外ばかりではない。内にもいる。思春期の性欲は少年を苦しめる。いやらしい事ばかり考える。階段を登る女子の足に欲情しテニスの女子部室を覗ける場所を真剣に探す。究極の自慰を探求する。手を使わず気合でイクのだ。
これは意外と気持ち良いが、心技体、妄想、体調、雰囲気が整わないと難しい。それでも本物の女への憧れと渇望は止まらない。ブレイドが血の渇きを止められないのと同じである。そんな時年上の女性の気まぐれに遭遇した。求めよさらば与えられん(マタイ伝)神の存在を学んだのである。

海外へ行くと、その日暮らしの考え方が役に立つ
こんな経験が、外国へ行くとけっこう役に立つ。そこに暮らす人々の考え方が理解しやすくなる。危険に近づかない。その日暮らしの感覚が分かる。タイで起業した日本人経営者は悩んでいた。会社の業績が悪くなり社員のうち5人を解雇しなければならない。誰を選ぶか。退職の条件はどうしよう。きっと悲しむだろう。その顔を見るのは辛い。
でも仕方がない。思い切って5人に告げた。「申し訳ないが辞めてもらいたい。その代わり3ヶ月分の給料を退職金代わりに渡すよ」「どうして、私は何か悪いことをしたか」「辞めたくない」「酷いよ社長」そんな答えが返ってくるに違いないと息を飲んで返事をまった。ところが。
「コップン・カー」「ありがとございます、社長」彼らはニコニコして帰っていった。社長は狐に包まれた気分である。「なぜ彼らは怒らないんだ。会社がいやだったのか」呆れた顔の秘書が言った。「当たり前ですよ。タイ人なら3ヶ月分も給料が貰えるならみんな辞めますよ。田舎へ帰って親孝行もできるし、のんびり次の仕事も探せる。こんな嬉しいことはない。私も辞めようかしら」
日本人の多くにとって仕事を失うのは大きな出来事である。サラリーマンにとってはリストラは悲劇だ。外国人も同じだろうと考えるがそれが違う。むしろ日本人のような生真面目なのは世界で少数派である。多くの人がその日暮らしで生きている。極端になると「その時」暮らしの人たち迄いるのだ。

資本主義に疲れた男たちが集うソイ・カウボーイ
アマゾンにいるピタハンという種族だ。彼らは現在を表す言葉しか持っていない。過去や未来を表現する単語が無いのだ。過去がこうだったからこうしようとか、明日のために準備するという概念が存在しない。アフリカの農耕民族トングウェ人はできるだけ少ない努力で暮らしている。将来に起きることは起こったときに考えれば良い。食料を蓄えるという考えはない。
40年先の年金を心配している日本人とは随分ちがう。欧米や日本のような資本主義社会に生きる人間は今だけに生きるのが苦手なようだ。過去を反省して未来を心配して疲れてしまう。そんな男たちがたくさん集まるのがタイである。
ソイ・カウボーイは疲れた男にとって居心地具合の良いところらしい。白人の中年男性がゴーゴーバーの店先のテーブルで一人酒を飲んでいる。ビール瓶を片手にぼんやりと通りやビキニの女性を眺めている。寂しい様子はない。ただ脱力しているのである。
最近、これをやりだした。一人で座って女の子を眺める。見る対象は山ほどある。際どい衣装の女性、背が高いレディボーイ、白人観光客、日本人、退屈しないのである。ビールは一本180バーツ、200バーツ出して釣りはいらねぇとやるから店員は愛想がいい。金もやる気もないジジイと見られるのか女の子はあまり寄ってこない。
確かにやる気が無くてドーピングもしていない。ただただボーッとしている。その日は珍しく女性がやってきた。「ジャパン」「メイビー」笑うと歯の矯正をしている。随分若いのだろう。「遊ばないの」「今日はそんな気分じゃないんだ」ちょっとがっかりしたような顔に思わず言ってしまう「飲み物どう」「いいの」「どうぞ」

旅の教訓 女の子のペースに巻き込まれら負けである。
「調子はどう」「あんまりよくない、今日は約束してた男にフラれた。ついてないよ」「日本人」いいやちがうよ、日本人はそんな事しない。連絡くれるよ。」日本人は律儀なのである。「日本人は減った。日本人は気前が良くて優しいから好きだよ。明日の心配ばかりしているのは変だけど。
今夜はどうしよう、明日はゴルフで早いから、明日はあれをしなくっちゃいけない。女の子の裸をみてもそんなことばかりを言ってる。結局はするくせにね。そんな事を言ってる間に一回できるよ。ショートでいいんだよ。どうして日本人は明日のことばかり心配するの。明日のことなんか分からないじゃない」
「たしかに、イエス様も、それゆえ明日を考えるな、明日のことは明日自身が考えるだろう。一日の苦労はその一日だけで十分だと言ってるね」「あんたクリスチャン」「違うよ仏様」「イエス様も良い事いってるね。それでどうするの」「えっ」「明日のことは考えない、だったら今のこと考えようよ」

「そうくるか」「ペイバー1500バーツ、ショート3500バーツ」「3500バーツは高いんじゃない」「3000バーツでどう、部屋は近くにあるよ」「決まった、あっ」「ありがとう、さぁ行こう」やはり私の経験は発酵していなかった。
 
 



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