バンコクのスクンピッドにあるホテル、窓に広がる夜景はいつも通りだ。何も変わっていない。ビルの明かりは煌々と輝き、道路は渋滞の車で溢れている。だがイラン戦争の影響は同じ風景の裏側に出ていた。ナナプラザやソイ・カウボーイの人出は減っていた。肌が浅黒く髭の濃い人達が少ない。タニヤは日本や中国、韓国の人が頑張っている。ただドリング代は10から15パーセントくらい上がっていた。

タイも大変 イラン戦争の影響
「ガゾリン代は上がるし客は減ってる、大変だよ」タクシーのおっちゃんはぼやく。「電気代も燃料代も上がって大変よ。さっさと片付けて欲しいもんだね」屋台のおばちゃんは怒りながら、料理の値段を5バーツくらいしっかり値上げしていた。怒っているが深刻さは無い。アメリカとイランの戦争なんだからどうしようもない。嘆くより今日一日を乗り切ろう。タイの人は、物価高の厳しい状況の中でも明るさは失わない。街も人も活気がある。
それに比べると日本は深刻だ。テレビもSNSも、原油がなくなる、ナフサがない、6月に日本は詰むの大論争である。政府が原油を確保したと発表しても信じない。無くなるはずだ、無くなって欲しいと言わんばかりである。なぜそんなに心配するのだろう。

心配症大国・日本 絶望する若者
「子供にお金を使い(一人当たり大学まで約2000万)、親にお金を使い(施設2名3000万)、老後に自身が生きる蓄えはできるでしょうか。自分の子に迷惑をかけ、なにも生産できず、死ぬのを待つだけなら、条件付きの安楽死を合法化してほしいです」(神奈川県、20代)
無理ゲー社会 橘 玲(著) 小学館新書
日本人の心配性は筋金入りである。この意見は、作家、橘玲が参加した「参議院自民党の不安に寄り添う政治のあり方勉強会」に寄せられた意見である。彼は、多くの若者が老後の生活に絶望して安楽死を希望していると、著書「無理ゲー社会」に書いている。老後といえば40年以上先である。そんな遠い未来はどうなっているか分からない。心配しても無駄だと思うが、日本の若者はそう思わない。
NHKのテレビ番組によると、「自分は心配症」と感じる日本人の割合は80%なる。この心配性は遺伝子に由来する。日本人の80%が不安を感じる遺伝子、SS型セロトニントランスポーターを持っている。アメリカ人の保有率は19パーセント、比較するとその高さがわかる。これは、日本が、火山の噴火や地震、津波にときに怪獣にまで襲われてきた結果だそうだ。
テレビなどの商業メディアは、その性格を狙って心配事ばかり報道する。米が無くなる、水不足になる、原油が無くなるである。だが日本人の心配ごとの90割は杞憂に終わる。日本は心配性の国である。だが世界を見ると日本人のように心配ばかりしているのはレアケースだ。世界の大半の人たちはその日暮らしで生きている。

究極のその日暮らし ピタハンという種族
「「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済」は、人類学者、小川さやか氏のタンザニアでのフィールドワークから生まれた。そこには日本人の知らない生き方ともう一つの資本主義経済があった。日本人は小さい頃から将来に備えて勤勉に働くように教育される。資本主義は、常に効率化を求め生産性を上げて未来に備える。
日本社会は資本主義の典型である。社会は怠け者やフリーライダーを排除する。若者は老後に備えて働き、理想とする老後が得られないと心配して絶望する。私たちは未来のために今を犠牲にする。しかし世界にはそうでない人達がいる。「その日暮らし」の人達である。筆者は世界は勤勉主義者と怠け者主義で成り立っているという。勤勉主義者は怠け者に憧れ、怠け者は勤勉主義者に憧れる。ただ幸福度は怠け者の方が高いようだ。
話はアマゾンのピタハンという種族から始まる。ピタハンは何も持たない。道具や保存食を持たない。神話も無ければ儀式もない。言葉には色の名前も左右もない。過去や未来を表す単語も無い。過去がこうだったからこうしようとか、明日のために準備するという概念自体が存在しない。現在のみに生きている。ちょっと何を言ってるか分からないが、彼らは幸福に暮らしている。
タンザニアに住む農耕民族トングウェ人はできるだけ少ない努力で暮らそうとする。将来に起きることは起こったときに考えれば良い。今心配する必要はない。農業はするが作物は最小限を育て蓄えは持たない。彼らは食物を分け合う。多く作ると他人に分け与えないといけない。それなら無くても同じだ。有るものだけで暮らせばよいとなる。世界には「その日暮らし」の人がいる。

Living for Today 「その日暮らしの人類学」
目標や職業的アイデンティティを持たず、浮遊・漂流する生き方は、わたしたちには生きづらいようにみえる。だが、「カネがない」の意味で「困難な人生」と語られることは多くても、前へ前への生き方に特別な不安感や空疎さを重ねる言葉をほとんど聞いたことがない。
「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済
筆者はタンザニア北西部、ビクトリア湖の湖岸の都市ムワンザで15年渡り調査を行った。住民の多くはマチンガと呼ばれる零細商人である。彼らは小規模な商売で生計を立て暮らしている。過去は考えず前へ前へと進んいく。彼らは物質的な豊かさに恵まれなくても精神的に豊かである。終身雇用や年金制度の崩壊に怯えて絶望する日本の若者とはずいぶん違う。彼らにとって、未来は心配をする対象でなくて何かを始めるチャンスなのだ。
若者は仕事は仕事と割り切り気軽に職業を変える。お金に困ったら知人に金を借りて凌ぐ。自分にお金があれば他人に貸す。貸した借りたで毎日を過ごす。お金が溜まると小さな商売を始める。その商売は計画的に始めるものでなく、その時次第、思いつき次第である。商売が上手くいくとそのノウハウを他人に教えてしまう。大勢の人がその商売に殺到して、儲からなくなるが誰もノウハウを隠そうとは思わない。
それどころか借金を頼まれると商売の元手として溜めた金も貸してしまう。みんながそうするので、お金は貸したり借りたりで仲間の間をグルグル回って暮らしていける。彼らはお金を借りるより貸した金を督促するのに罪悪感を感じる精神性を持っている。養った経験と人的ネットワークを使って仕事を探していく。そこに未来に対する不安はない。その日が乗り越えられれば良いのである。

筆者は、その生き方の例として、研究助手のブクワと妻ハディジャの生活を紹介している。彼も妻も少額の資金を得ると次々と商売を始める。上手く行きそうになっても失敗することが多い。しかし彼らはめげることなく前へ前へ進む。彼らや友人が始める小さな商売は、企業を主体とした既存の資本主義とは異なる資本主義経済を生み出している。それは遠く中国までつながっている。(続く)

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