ベネチアは世界有数の観光地であり訪れる人は多い。ベネチアほどではないが、パプアニューギニアを旅するちょっと変わった旅好きもいるに違いない。この物語はそんなベネチアに実在する高貴な一族から始まりパプアニューギニアに到達する。

ベネチアの眠れない一族
その一族の半数の人たちは中年期を迎えると眠れなくなり、異常な発汗と頭部硬直、瞳孔収縮が始まって死を迎える。その確率は50%、一族に生まれた瞬間この確率で死を待つ身になる。30歳ころまで死に怯えながら生きねばならない、そして5割の人に死が訪れる、これ以上の恐怖があるだろうか。それでも彼らは200年もの長い間、この奇妙な病気に苦しめられながらもイタリア伝統の家族主義を守り子孫を残してきた。
一族を苦しめてきた病気は20世紀になって「致死性家族性不眠症(FFI)」という遺伝性のプリオン病と分かる。しかし治療法はまだ見つかっていない。彼らを苦しめ続けるプリオンとはいったい何なのか。筆者ダニエル・T・マックスは、この病気に挑む科学者たちの姿を「知的かつ不気味な医学小説」と評されるエンターテイメントに仕上げている。面白いけれど怖い。日本人とプリオン病との関係も怖い。
病気も奇妙だが登場する科学者も個性的だ。科学者カールトン・ガイシェジェックは特に強烈だ。彼はニューギニアの原住民フォレ族に流行る風土病、クールー病の調査に行く。最初はウイルスが原因と考えたが見つからない、やがてフォレ族の食人習慣を疑うようになる。それがプリオン発見のきっかけだった。
ガイシェジェックはクール病の研究によって後にノーベル生理学・医学賞を受賞するが、その後なんともはや小児性虐待で有罪判決を受けるのである。彼は天才だったが男性小児愛好家でもあった。頭の良さと性癖は別ものである。男の下半身に人格はないのだ。

なぜこんな美味しい物を今まで食べなかったのか
彼が調査するフォレ族もなかなか個性的で、男色を許容する性のタブーのない種族だった。クールー病そんな人たちの村で流行っていた。病気に罹った村人は身体を震わせながら死んでいく。続いて村に派遣されたロバート・グラスとシャーリー・グラスは村人から重要な証言を得る。
「病気は50年前にタワツィという先祖を食べたときから始まった」そのときのフォレ族の言葉が振るっている「なんとしたことだ、なぜこんな美味しいものを今まで食べなかったのか」人は美味しいらしい。宣教師が食人を止めさせると病気は減少した。やはり食人が関係していた。異常性愛癖のガイシェジェックと性のタブーを持たないフォア族が物語を盛り上げる。
同じ頃、ヨーロッパでは羊に「スクレイピー」と呼ばれる奇妙な病気が流行っていた。羊は病気に罹ると性格が凶暴になり、身体を何かに擦り続けながら歩けなくなって死んでしまう。病気は欧州中に蔓延して牧畜産業に大きなダメージを与えた。研究者たちは原因となる細菌やウイルスを探すが見つからず、当時頻繁に行われた品種改良を疑う。近親交配に原因があるのではないかと。
そのうち欧州の人間に同じような病気が現れた。病気はドイツの神経学者ハンス・ゲルハルト・クロイツフェルトとアルフォンス・マリア・ヤコブによって明らかにされ、1920年と1921年に症例報告が行われた。ドイツの精神科医ヴァルター・シュピールマイヤーは、それをクロイツフェルト・ヤコブ病と名付けた。

プリオンの発見
医者たちはどの病気でも細菌やウィルスを懸命に探すが発見できない。わかったのは病気が遺伝すること、発症する者としない者に分かれることだけだった。カールトン・ガイシェジェックは、クールー病やスクレービーはスローウィルス原因と考えたがそれも見つからない。
そんなときに野心に燃える化学者スタンリー・プルジナーが登場する。かれは病気にかかった動物の脳からあらゆる物質を抽出し実験動物に注入して病気の再現に成功した。発見された物質は非常に小さな蛋白質だった。彼はそれをプリオンと名前けた。病気は異常なプリオンが原因だった。
異常プリオンは体内に侵入すると正常なタンパク質をドミノ倒しのように異常プリオンに変えてしまう。脳内の異常プリオンは脳組織に海綿状の空腔をつくり全身の不随意運動や認知症脳機能障害を急激に引き起こす。中枢神経に沈着すると中枢神経が変異して約1年から2年で死亡する。病気は少量のプリオンを摂取するだけで発症する。一族の病気致死性家族性不眠症(FFI)やゲルストマン・ストロイスラー・シャインカー症候群もプリオン病だった。
食人の記憶 ホモ結合とヘテロ結合
プリオン病に罹りやすい人とそうでない人が存在する理由もやがて解明される。50万年前、人類の正常なプリオンの遺伝子コードはメチオニンだった。そこに、突然変異が起こりバリンをコードとする遺伝子が現れ、メチオニンとバリンの二つのプリオン遺伝子ができた。
遺伝子は母と父から一対づつ受け継ぐので、メチオニンとバリンのヘテロ結合と、メチオニンとメチオニン、バリンとバリンのホモ結合のタイプがいる。その後の研究でプリオン病に罹る人の大部分はホモ結合の人たちであり、ヘテロ結合の人たちは罹り難く、罹っても発症しにくいことが分かった。
このことから、古代の人類が食人を行いプリオン病が流行した結果、病気に耐性のあるヘテロ結合の人種が生き残ったとわかる。人類は同時に病気の原因となる食人をタブーにした。ところが、近代になると商業的利益のために羊の近親交配を行い、牛に牛の肉骨粉を食べさせて異常プリオンを生み出した。プリオン病は高等な動物の近親交配や同族食を防ぐ神のルールなのだ。

日本人はプリオン病に弱い
今、世界の民族はヘテロ結合の人が大半である。多くの民族が食人の過去を持つのだ。しかし日本人の殆どがホモ結合の遺伝子を持っている。過去に食人の経験が無く、島国で暮らして他民族との交流が少なかったのが理由らしい。これが意味することは簡単だ。日本人はプリオン病に対する耐性が弱い。
2000年代に起こった狂牛病騒動の際、プリオン遺伝子の種類は話題にならなかったが、外国人に比べ日本人は明らかに狂牛病(BSE)に弱かったのである。多くの人が厳しい制限に文句を言ったが、あれが無ければスペイン人によって天然痘を持ち込まれたインカ帝国のようになっていたかもしれない。人種差別はいけないが違いは存在する。
このノンフィクションは、優れたエンターテインメントであると同時に人類が踏み込んではいけない領域についての警鐘でもある。21世紀の人類は経済的な利益を求めて禁じられた領域に再び踏み込もうとしている。商業主義が求める遺伝子操作は第2の異常プリオンを発生させるかもしれない。
恐ろしいことである。眠れない一族はどうなったか。長いヨーロッパ行きの機内やパプアニューギニア行きの船旅で読んでいただきたい一冊。
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