日本 京都 千本日活にいた痴女

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ドアが少し開いて観客席に細い光が入ってくる。黒いシルエットはこの映画館に珍しい女性のものだった。彼女は席を探してしばらく歩いたあと前の席に座った。隣は若い学生風の男性だった。

スクリーンはおりしも濡場になり年配の女優が身体を晒している。彼女はそれを見ると身体をよじりながら「なんでこんな女が、こんな事をしてもらえるんや」と切なげに、そして怒りの混じった声で呟いた。これは一体なんなんだ。

福原の魔界の夜を書いていたら京都の魔女を思い出した。その魔女は京都の千本中立売りの成人映画館、千本日活に現れた。千本日活は千本通りから中立売通りを西に入った一筋めの上長者通りにある。当時の入場料は今でいうワンコインの500円だった。京都は学生の街である、その安さから時間つぶしと欲望を開放するために多くの若い男が入場していた。

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老舗、大市のまる鍋は絶品である

千本日活のすぐ隣に有名なすっぽん料理の大市がある。創業は江戸時代の元禄元年、西暦1688年の老舗である。元禄15年に赤穂浪士の討ち入りがある。古い京町家の店に入ってすぐの柱に幕末の志士の刀傷が残っている。奥には乃木大将が食事をした部屋もあった。メニューは、小鉢、まる鍋と呼ばれるスッポン鍋とその雑炊、水菓子という非常にシンプルなものだ。お代は一人前が25000円と少々お高い。

まる鍋は土鍋をコークスで高温で一気に炊き上げる。運ばれてくる土鍋は沸騰し底が赤く光っている。具はスッポンのみ、エンペラも肉も柔らかく絶妙の味わいだ。この鍋は2回出てくる。その後の雑炊がまた美味い。漫画美味しんぼうにもここをモデルにした店が登場する。日本でも有数の老舗が千本日活の際どいポスターの近くにある。京都という街は面白い。

大市へ初めて行ったとき映画館を見て驚いた。若い頃は大市があったと気づかなかった。年をとって高級店に行けるようになったが、隣の映画館で銀幕の女優を見たときの硬さはもう無い。青春時代はスッポンで精をつける必要はない、どのようなことでも気持ちよかった。その若さは取りもどせない。お金と若さの両方あれば言うことはないが世の中そうはうまく行かないのである。

デジカメがフィルムカメラを駆逐し、デジカメもスマホにその席を譲ったなど、科学はつねに古い製品や職業を淘汰し新しい産業を生みだす。しかし長く続き無くならないものもある。料理は過去から連綿と続いている。古代ギリシアの神殿で行われ世界最古の職業と呼ばれる売春も無くならない。

人間の本質は技術が発達しても変わらない。それに関わるものは無くならい。それを350年続く大市のまる鍋とAVの美女たちが証明している。いつ食べても美味い。

成人映画は昭和のアンダーグラウンド文化の華

成人映画館は昭和40~50年代に隆盛を極めたが、アダルトビデオの登場によって減少し映画と共に絶滅危惧種になっている。生き残っている映画館もLGBTの人たちのサロンと化している。シュミーズとロングストキングの老人が徘徊し、ゲイとゲイが抱き合い、若い女装娘に会社員風の男たちが群がる、なかなか悪魔的な雰囲気だ。迷い込んだ若者が襲われることもある。

健全な若者はAVをネットで見て、わざわざそんな危険な所へいかないから、映画館は衰退する一方である。だが昭和の時代は、若者やおじさんが女性の濡場を見られる貴重な場所だった。他にもストリップやトルコ風呂などの風俗はあったが、映画は格段に安かったので貧乏学生は良く行った。

当然ながら映画であそこや結合場所を見みることはできない。モザイクは無くベッドサイドに置かれた花やグラス、身体の角度で隠される。匠の技である。更に誤って局部が映らないように、なにしろ低予算なのでフィルムは貴重品だ、女優はテープを秘所に貼って隠した。女優によっては黒いテープを使い実物に近づけた。

このテープは前張りと呼ばれる。剥がすのはたいそう痛かったそうだが、不埒な男優が入れてくるのを防ぐためにも必要だった。だから女優の喘ぎは全て演技になる。本番より演技、具象より抽象で興奮させた。今なら剥がした前張りはネット売れるだろうが、当時はヤフーもメルカリも無かった。

今も活躍する女優たち

新東宝やオークラ映画などの小さな映画会社が作る映画はピンク映画と呼ばれる。一本百万くらいの予算で女優が3人と決まっていた。当初は白黒フィルムだったが、直ぐに濡場のシーンだけカラーにするパートカラーになる。パンティストッキングが発売された頃で、カラーで見るパンスト足に興奮したものだ。

監督やスタッフの作品にかける情熱は大きく、制限のなかで意欲的な作品作りに挑戦した。「天使のはらわた」とか「狂った果実」とか懐かしい。実験的な作品は興奮できないものも多かったが、3本立てなのでなんとかなる。下半身に掛けた上着の下で昇天する男は多かった。

女優は、谷ナオミや宮下順子、原悦子が有名だった。日活がロマポルノと銘打って参入すると、白川和子、東てるみ、片桐夕子、風祭ゆき、絵沢萌子、美保純などのスターが生まれる。東映には池玲子や杉本美樹がいた。彼女たちは今でも2時間ドラマなどに出演している。それを見ると、彼女たちが若い頃随分お世話になったと感慨深い。

魔女が隣にやってきた

さて話は映画館に戻る。おばさんはそのシーンになると「くやしい」とか「なんであんなぶさいくが」とか怒り続けていた。いつの間にかハンカチを取り出しキーッと咥えて身もだえる。感情が溢れ出す迫真の演技、ではなく本心が溢れだしている。その声は異様なエロスがあった。

もう映画どころではない、彼女にばかり気を取られる。やがて隣の学生にもたれかかる、学生の身体に緊張が走るのが分かった。彼女の肩が小刻みに動きだす。このリズムは何。彼女の上半身が座席から消えた。映画はクライマックスに近く、家ならばティッシュを引き寄せる頃合いだ。

もう少しだ、その瞬間、学生が弾かれたように立ち上がり、ジーパンのチャックを焦って上げながら入口に向かっていった。彼女は振り返りその後ろ姿を目でいながら、視線を私に向けにんまりと笑う。満足そうな口元から白濁した液が滴っているように見えたのは幻覚だったろう。おばさんの顔は熟女というより老女だった。

彼女は自分の席で暫くガサゴソしていたが、ゆっくりと立ち上がり、お尻を必要以上に突き出しながら私の前を通り隣に座った。年がいっているといっても生身の女である、そのお尻の柔らかさに反応してしまう。彼女は顔をスクリーンに向けたまま手を伸ばし私の腕を撫でだした。

魔女の肌は吸い付くようだった

この獲物は逃げないと判断したようだ。ノースリーブの左腕が私の腕に擦り付けられ絡みつく。柔らかい胸が押し付けられる。こんなおばさんと思っても欲望が湧き上がる。右腕を伸ばして太腿を撫でてくる。身体がさらに密着する。このまま進むとさっきの学生のように彼女の口の餌食になる。

彼女の肌はひんやりとしてザラザラしている。そのくせ吸い付くようでもある。この感触、子供の頃に経験したことがある。蛇だ。蛇の肌はぬめっているようでザラザラだ。白蛇伝の美女や、泉鏡花が「高野聖」で描いた深山に住む魔性の美女の肌も、このようだったのだろうか。

高野聖は旅の青年修行僧が魔物に出会う話で、妖しい描写は耽美小説の極みである。ある山深い峠道、人里離れた屋敷に絶世の美女の主人と下男が住んでいる。女は訪れる旅人を歓待し、露天の湯で男に裸をみせて誘う。妖艶な後ろ姿に勝てる男はいない。誘いに負けて馬に変えられてしまう。青年修行僧も誘惑されるがお経を一心に唱え耐える。妖女はその姿を誉めて解放するのだった。

おばさんはますます積極的になってくる。好きにさせようか。痴女に出会う体験など滅多にないはずだ、ましてお口など。どうしよう。彼女の手はズボンの上に置かれ、はっきり形が分かるようになったものをなぞっている。顔はスクリーンでなくこちらに向いている、どうしよう。気持ちいい。

おばさんの行為に身をゆだねても、まさか馬に変えられる事は無いだろう。彼女の手がチャックにかかる。だが京都は百鬼夜行が出現し、弓削道鏡が女性天皇に近づき、賀茂保憲や安倍晴明が物の怪と対峙した魔都である。菅原道真や崇徳上皇が祟りをなした街でもある。どこに異界が口を開けているか分からない。チャックが降ろされる。

京都の街は魔界に通じる

私は慌てて立ち上がりチャックを上げながら逃げ出した。意気地なしとおばさんが見ていたかは分からない。ドアを開けロビーに出ると、おばさんが与えてくれただろう快感に未練が出てくる。それにまだ一本しか見ていない。もったいないがこれで良かったような気がした。

あのような歪んだ快感を覚えたら普通の性では満足できなくなったかもしれない。それは魔界に入るということだろう。今でもおばさんの悔しそうな声を思い出す。女性の業は何とも深いものだ。

それからも千本日活であのおばさんを見かけた。いつも同じように席を回り若い男の隣に座った。男は暫くすると慌てて立ち上がり出ていく。彼女は貧しい男たちの性を満足させている。その姿はまるで人魚の肉を食べて不老不死になった八百比丘尼である。だが私の所へは二度と来なかった。

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