女性が帰った部屋はがらんとして味気がない。二人で過ごした濃密な時間の余韻は消えただ無機質な空間が広がるばかりだ。やれやれ今夜も無駄使いをしてしまったと、先ほどまで彼女の優雅な体を映していた窓に顔を向ける。小さなテーブルに置かれた一冊の本とパスポートが目にとまった。

どちらも今は必要がない。パスポートは彼女が帰った後金庫に仕舞おうとして置いたのがそのままになっている。本はお楽しみで力を使ってしまい読む気力が無くなった。本の端から栞のリボンがぶら下がっている。そこは第5章「梅毒」のページだ。この本は楽しみとともに戒めでもである。
お楽しみの後に本を読むのは難しい
旅に出るとき難しい本を一冊バッグに入れる。フライト中の時間潰しが目的だが読んだ試しがない。飛行機は食事をしたり酒を飲んだりと何かと忙しいからだ。もう一つの目的は本くらい持っていかないと下半身を使いに行くだけになる。本は頭も使うという免罪符なのである。
今回持って来たのはジェニファー・ライト著「世界史を変えた13の病」だ。彼女は女性に焦点を当てた歴史エンターテイメントが得意である。人類の歴史が病気との戦いだった。病気の流行が歴史に大きな影響を与えたことに注目した。その病気のなかでも特に大きな影響を与えた13を選んで短い物語にした。病気と社会の関係がユーモラスにときに辛辣に描かれている。
パンデミックの度に人類社会は大いに混乱するが、有り難いことにいつの時代も病気と戦う科学者や医学者がいた。預言者として有名なノストラダムスもペストの流行期に医者として活躍している。彼は薔薇水を治療薬として売っていた。だが彼らが誉められることは少なかった。どの時代にも今から見れば奇妙だが効果があると信じられた治療法があったからだ。新しい治療法は疑われるのである。
彼らは、病気だけでなく迷信や奇妙な治療法とも戦わねばならなかった。ジョン・スノウはコレラ対策に奔走し成果を上げたが変人と揶揄された(7章)。ダミアン神父はハンセン病患者の救済に尽くしたけれどやっと聖人に列せられたのは21世紀だった(8章)。スペイン風邪の防疫で大きな功績を上げたハワード・アンダーソンは今も無名のままである(10章)。
新しい治療法は犠牲者の数が増え続け古い治療法に効果がないことが証明されて初めて使われる。人の考え方や社会が変わらないと感染症は収束しない。こうして病気は社会を変えるのだ。

歴史を変えた13の病気
彼女が選ぶのは以下の13の病である。
1.アントニヌスの疫病 医師が病気について書いた最初の歴史的記録
2.ダンシングマニア 死の舞踏
3.線ペスト 恐怖に先導されて
4.天然痘 文明社会を即座に荒廃させたアウトブレイク
5.梅毒 感染者の文化史
6.結核 美化される病気
7.コレラ 悪臭が病気を引き起こすと考えられた
8.ハンセン病 神父の勇敢な行動が世界を動かした
9.腸チフス 病原菌の保菌者の権利
10.スペインかぜ 第一次世界大戦のエピでミック
11.嗜眠性能炎 忘れられている治療法のない病気
12.ロボトミー 人間の愚しさが生んだ「流行病」
13.ポリオ 人は一丸となって病気を撲滅した
アントニヌスの疫病はローマ帝国後期に流行した。ストア哲学者の哲人皇帝マルクス・アウレリウスは病気の収束に成功するが、ローマ市民が減少したことから軍団に外人傭兵を入れざるをえなくなりれそれが帝国の滅亡につながった。
ペストはヨーロッパの3割の人が亡くなるという酷い感染症だった。奇妙な治療法や薬がたくさん生まれたがなかなか終息しない。民衆の怒りは患者を救えない教会に向けられた。教会の権威は失墜しルネサンスに繋がり中世を終わらせた。

天然痘はインカ帝国を滅ぼした(第5章)
コロンブス交換から始まったのが梅毒である。スペインはコロンブスに続いて南米征服を始めアステカやインカ帝国と戦い打ち負かした。アステカやインカの兵隊はスペイン人より圧倒的に多かった。それなのになぜ負けのか。帝国が内紛していたこと、スペイン人の鉄砲が強力だったことが理由とされるがスペイン人はそれより凄いリーサルウェポンを持っていた。
天然痘の病原体である。抗体を持たない南米の人々は一溜まりもなく感染し、2500万人が100万人にまで減少した。インカやアステカは天然痘によって滅亡したのだ。だが話はまだ続く、コロンブスの船員やスペイン兵はインディオの女性たちをレイプした。そのさいに南米の風土病だった梅毒が仕返しのように兵隊に感染し欧州へ渡る。
コロンブスの船員たちは新大陸から帰ると、フランス軍の傭兵になり1494年のイタリア戦争に従軍する。フランス軍がナポリに進駐すると新しい病気が流行りだした。フランス軍に病気の元があったので人々はフランス病と名付けた。
日本の梅毒の始まりは1512年である。最初の発生の記録がある。病気は梅干しのような発疹ができることから梅毒と呼ばれるようになった。梅毒はコロンブスたちによって欧州へ持ち込まれ、わずか20年でほぼ地球を一周した。帆船の時代なのになんという速さ、男は我慢ができない生き物なのだ。

梅毒はわずか20年で世界を一周した(第5章)
梅毒は、スピロヘータの一種である梅毒トレポネーマによって発症する怖い性感染症だ。最初は小さな腫瘍からバラ疹、次はゴム腫が発生し鼻が落ちる、最後は脳や脊髄、神経が侵され死んでしまう。抗生物質で治癒するが免疫はできないので罹る人は何度も罹る。
多くの有名人が梅毒に感染した。ニーチェやベートーヴェン、ナポレオン、シューベルト、リンカーン、聖職者にも痕跡は現れた。ニーチェの思想は梅毒の賜物と言われる。日本では加藤清正、結城秀康、前田利長、浅野幸長が梅毒に罹っていた。徳川家康は、医学の知識を持ち遊女に接するのを自戒した。さすが家康である。
流行が続く18世紀の英国では「ノーノズドクラブ」が結成されている。この奇妙な名前のクラブの入会資格は鼻が欠けていることだった。会員たちの鼻は何処へいったのだろう。事故や刑罰で失ったわけではなく整形手術の失敗でもない。「ありがたいことに俺たちに鼻は無いが口はある。今のところご馳走に一番役にたつ機関は残っている」人は鼻を失くしてもユーモアは無くさない。
日本でも江戸の夜鷹は鼻欠けが多かった。川柳に「鷹の名にお花お千代はきついこと」の句がある。“お花お千代”は“お鼻落ちよ”にかかっている。ノーノーズドクラブほどではないが、日本人のユーモアもまんざらではない。
梅毒は1940年代に有効な治療薬ペニシリンが普及して一旦減少した。しかし2000年代になるとコンドームの不使用による感染が増加してきている。怖いことである。

世界の母親をポリオの恐怖から解放した米国に善意(13章)
梅毒は人の欲望に関わる話だが、人の善意がいっぱいの話もある。筆者はこのポリオの章が一番好きと言っている。
CBSの報道記者エドワード・R・マローがワクチンの特許を取る(大金を稼ぐ)つもりかどうかソークにきいた。特許の所有者は誰かと尋ねると、周知のとおり、ソークはこう答えた。「民衆のもといってでも言っておきましょう。特許を取ることなどできません。太陽が誰のものでもないように」
世界史を変えた13の病 ジェニファー・ライト(著) 鈴木涼子(訳) 原書房
ジョナサン・ソークはポリオの不活性ワクチンの開発に成功したときの記者会見でこう述べた。彼はこの返答ほど素晴らしい人物ではなかったようだが(テイカーの代表)ワクチン開発に大きな貢献をしたのは間違いない。親と子供にとってポリオ(日本で小児麻痺の名前で知られている)たいへん恐ろしい病気だった。
ポリオのために多くの子供たちが障害者になった。米国第32代大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトも感染し車椅子生活になった。大統領は自らリーダーとなってポリオに戦いを挑む。彼は、支援財団と療養施設を創設し自筆の手紙を書いて患者や家族を励ました。療養施設が資金不足と聞くとチャリティ舞踏会を開いて資金を集めた。
やがて超党派の議員たちによって全米小児麻痺財団が設立される。700万人がボランティアとして働き国民の60%が財団に寄付をした。ソーク達はそのおかげでワクチン開発に成功すると1800万人の親子がワクチンの治験に志願した。
次の大統領アイゼンハワーは有効性が確認されると全米の子供達に無償で供給する。「ソ連を含むすべての国にワクチンを与える」冷戦の最中だったにも関わらずと宣言し世界中に提供したのである。世界中の親子がポリオの恐怖から開放された瞬間だった。

歴史が教えるアウトブレイクの教訓
スペイン風邪は1914年に世界中に猛威を振るい5000万人が亡くなった。この病気はスペインと名前がついているがスペインで発生したものではない。元はアメリカのカンザス州で生まれた病気だった。現地の医者は病気の発生と危険性を訴えた。だが行政とマスコミは流行を隠蔽した。運の悪いことに流行中に第一次世界大戦が勃発する。
アメリカから病気を持って渡った兵士によって戦場で敵味方関係ないパンデミックになったのである。アメリカの誰か知らないが、アメリカ風邪とかカンザス風邪とか言われるのを気に入らない人がスペインに罪を着せたのだ。
人類はこれと同じ過ちを21世紀に犯した。2019年12月中国の武漢で新型コロナが発生した。市場で売られたコウモリが宿主だったとされる。これを中国とWHOは隠蔽した。それどころか春節に旅人を世界中に送り出した。その結果世界的なパンデミックが起こったのは周知の所である。中国とWHOは武漢熱と言われるのを嫌いCOVIDと訳のわからない名前をつけた。人類は100年前と全く同じ愚行を繰り返したのである。

人生の教訓 正しい知識と行いは病気から自分を守る
人間は過ちを犯す生き物だが過去の教訓を活かさないのは愚かといえる。教訓を活かすには歴史を事実を知らないといけない。過去にも同じような事が起っていることが多い。人類は科学や医学の発達によって病気に対抗する強力な力を得た。しかしネットやSNSで誤った情報を流すこともできるようになった。それがパニックを誘発しやすくしている。
誤った情報や政治的な思惑から過去に無いパニックがおきる現在、彼女がくれる教訓は貴重である。 ①病気から自分を守るのは正しい知識と行いである。 ②権力者やメディアは自分の都合で病気を隠蔽したり誇張する。③社会(歴史)や人の意識が変わって初めて病気は終息する。それを心得ることが必要なのだ。「世界史を変えた13の病」はそれを面白い物語にしている。物語を読みながらパンデミックの心得が学べるのだから美味しい本である。
病の教訓はパンデミックだけでなく夜遊びにも当てはめることができる。特に①は重要だ。エイズや梅毒の知識を持ったらコンドームの必要性がわかる。夜遊びをしないのが一番良いのだが、私達は徳川家康には馴れない。だから凡人に予防は絶対に必要なのである。


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