フィリピン イントラムロス幻想 サンチャゴ要塞

フィリピン

サン・アウグスティン教会から一歩出ると南国の強い日差しが肌に突き刺さる。その暑さが教会の積み重ねた歴史の重さから開放してくれるようで心地よい。人は明るい太陽の下では陰気になれない。そんなことを考えながら歩いているといつの間にかサンチャゴ要塞の前に着いていた。

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憩いの公園になったサンチャゴ要塞

イントラムロスの先端、パシック川に面してサンチャゴ要塞はある。イントラムロスは、16世紀にスペインがフィリピン統治のために建てたマニラで最も古い城壁都市だ。スペイン語で「壁の内側」を意味する。当時はスペイン人とその混血であるメスティーソのみが住めた。

今、要塞は公園になり街の人たちの憩いの場になっている。要塞の門は広い石畳の先、パシック川の水を引いた堀の向こうにある。門にはヨーロッパにアジアの風味が加わった彫刻が施されている。その姿は古い歴史を感じさせる。スペイン人は遠く故郷を離れたマニラで何を思いながら彫刻を彫っていたのだろうか。

建物に残る太平洋戦争の傷跡

要塞のなかに銃撃の跡が残る廃墟がある。建物を銃撃をしたのは日本軍である。ここは太平洋戦争時代の日本と米国の激戦地だった。その記憶を忘れないように当時のままに残されている。日本がフィリピンを占領したのは1942年から1944年迄である。

その間に日本軍26万人、米軍は1万人が戦闘によって亡くなった。日本軍はマニラをアジアの最大防衛拠点として頑強な抵抗を続けた。それに対抗して米軍は無差別爆撃を行った。フィリピンの人達が巻き添えになり100万人が犠牲になる。その頃、米国はフィリピンの独立を既に約束していたから開放の大義は日本になかった。現地の人達にとってはとばっちりでしかない。

フィリピンの人たちはその歴史から日本を責めることはない。その寛容に感謝しながら人気のない城壁の上を歩く。赤い花が輝く太陽のもと輝くように咲いている。パシック川に顔を向けると対岸に現代の街並みが広がっている。川は昔と変わらず流れている。ここは時間が止まったようだ。

グローバル都市マニラ

1571年、スペインはマニラを植民地の首都と宣言する。その3年後、倭寇の大船団がイントロムロスを襲った。中国の林鳳が率いる倭寇である。日本人を大将とした1500人の海賊だった。当時、倭寇は日本人だけでなく、中国人、朝鮮人を混じえた集団になっていた。日本人は潔さを重んじ死を恐れない。倭寇のなかでも凶猛な戦士と恐れられていた。その倭寇に対峙するスペイン軍はわずか200人だった。

街は燃え上った。戦場にスペイン語、タガログ語、中国語、日本語の怒号が飛び交う。男たちは炎を背景に戦った。マスケット銃の銃声や大砲の音が鳴り響く。木造のサンチャゴ要塞は粉砕され、サン・アグスチン教会は炎に包まれ崩れ落ちる。恐ろしくも美しい光景だった。

倭寇の大将は戦が下手だった。攻めあぐねているうちに船の能力と大砲の火力に勝るスペイン軍が盛り返す。林鳳はイントラムロスの占領を諦めて撤退をした。砦はこの戦いを教訓にして堅固な石作りで再建され、その後300年、サンチャゴ要塞はイントラムロス防御の拠点となる。

マニラは、スペインが来航する以前から明と貿易が盛んだった。スペイン船が来るようになると更に貿易は盛んになり、日本やアジアの欧州の商船が行き交った。要塞に立つとその光景が目に浮かぶようだ。

港に多くの大型船が泊まっている。中国人のおばちゃんが果物を売り込んでいる。そこへフィリピン娘が売り込みにやってくる。可愛い娘である。「それ、買った」日本人船員が呼びかける。「なんで、私から買わないのさ」中国人のおばちゃんが怒る。

「決まってるだろ」スペイン人が冷やかす。色んな国の船員がどっと笑う。そんな光景があったかもしれない。商売に、国籍や言葉、服装や髪型は関係なかった。港は多くの言語が飛び交い活気に満ちていた

豊臣秀吉は強気だった

マニラにはスペイン人がやってくる前から日本人が住んでいた。室町時代になると倭寇や、ルソン助左衛門などの堺商人や長崎商人が貿易のために訪れた。マニラから日本へ修道士たちがやってきた。1591年、豊臣秀吉は商人原田喜右衛門に命じて、フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスに日本への服従と朝貢を求める書簡を届けさせた。

総督ダスマリニャスは秀吉に危険を感じて、フランシスコ会の宣教師ペドロ・バウティスタを特使として長崎へ派遣する。バウティスタは秀吉と面談しなんとか宥めて貿易を続けることに成功する。しかし秀吉は宣教師が奴隷貿易を止めないことに怒ってキリスト教を禁止した。続く徳川家康もキリスト教を禁止する。そのバテレン禁止令によって日本を追放されたのがキリシタン大名高山右近だった。彼の終焉の地がマニラである。

このとき秀吉がフィリピンへ出兵していたら、もし江戸幕府が鎖国をしていなかったら東南アジアの歴史は大きく変わっていたかもしれない。各地に日本人街が築かれ経済は繁栄した。当時、日本は鉄砲保有数が世界一、銀の産出量も世界一の強国である。その国力は西欧列強の植民地化を防ぐには十分だった。そうなっていたら太平洋戦争とは別の歴史があったかもしれない。静かな要塞で妄想は膨らむばかりである。

海洋国家 日本とフィリピン

サンチャゴ要塞は日本軍が使った水牢などの負の遺産があるが、大部分は大航海時代のノスタルジックな雰囲気が漂う場所である。展示されている大砲など大航海時代のダイナミズムを感じる所でもある。日本女性と恋に落ちたフィリピン独立の英雄ホセ・リサールの記念館もある。

マニラに来て、健全な観光を考えるときイントラムロスは誠に良い所である。隣接する売店もお土産が揃って楽しい。私のように妄想をする必要はないが是非訪ねてほしい場所である。

フィリピンは島からなる海洋国家である。人々は島から島へと自由に渡って暮らしていた。日本人も農耕民族であるとともに海洋民族である。その日本には、中国や韓国にない明らかに東南アジアの顔をした人がいる。彼らは古代に東南アジアの島々から黒潮に乗ってやってきた人の子孫だろう。

昔、南シナ海は海を棲家にする人たちの自由な空間だった。日本人もフィリピン人もそんな時代の記憶を遺伝子レベルで共有している。それがお互いの親和性を生む。そう考えるとフィリピン女性と結婚する日本人が多いのも頷けるのである。

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