フィリピン セブ島 サント・ニーニョに会いに行く

フィリピン

人は、赤道に近づくほど陽気になるような気がする。アジアの赤道はインドネシアを通る。その近く国であるフィリピンやタイなどの人は屈託がない。特におばちゃんたちはどこの国でも賑やかである。逆に赤道から遠ざかり北へいくほど不機嫌な社会になるようだ。

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サント・ニーニョ教会はシンプルだった

日本人はどうかといえば、東アジアと東南アジアの中間くらいの気質で、陽キャもいれば陰キャもいて二つのギャップが激しい。ただおばちゃんになると南国なみに陽気になる。「何つまんない事を考えてるの、難しく考えるのはやめちゃいな」「ややこしい考えんでもええんちゃうん、知らんけど」東西を問わず明るい。日本の緯度は中国や韓国と同じくらい、なのにずいぶん違う。それはなぜだろう。

サント・ニーニョ教会の入口にフィリピンのおばちゃん達の陽気な声が響いている。道路を走る車の騒音に負けていない。「賑やかなところですね」「フィリピンで一番古い教会らしいよ」「フィリピンの人たちの殆どが敬虔なカソリックで、信仰に篤いんだ」「だからこんなに人が多いんですね」

二日酔いのせいで四人のオヤジは元気がない。昨夜、マンゴーストリートで散財した結果である。そんな仲間でも連れがいるのは心強い。一人で知らない外国は心細いものだ。「大きいですね」と教会を見上げる。教会と言えばヨーロッパの曇った空の下にそびえ立つ壮大なゴシック建築を連想するが、サント・ニーニョ教会は灰褐色の壁に彫像が刻まれたシンプルな建物だった。

輝くような陽光の下に、バロック様式とフィリピンの土着建築が融合した独特のデザインの教会が立っている。その姿は ローマ法皇よりバシリカミノレ(教会堂)の称号を与えられた。バシリカ・ミノレ・デルサントニーニョ (Basilica Minore del Sto. Nino) と尊称されるにふさわしい。

旅の教訓 2024年、教会にドレスコードが設置された

サント・ニーニョ教会の守護聖人はサント・ニーニョ (幼きイエスキリスト)だ。教会にある像は、世界一周をしたフェルナンド・マゼランがセブ島のファナ女王に贈ったものとされる。セブ島のフマポン国王や女王が洗礼を受けた後ほどなくして、マゼランは戦死しその像も忘れられた。

伝説によると、像はランプの台として使われたらしい。すると乗せられたランプは油が尽きず燃え続けたそうだ。それだけでなく村を台風や洪水から守り、戦乱に巻き込まれても無傷だった。セブの人たちはその奇跡を知り、像を「最高の存在」(バタラ)であり奇跡の守護神として崇めた。

1564年、セブ島民とメキシコ船団の争いが発生する。村は火に包まれるが一軒のわら小屋が焼け残った。そのなかに布で巻かれたサントニーニョの像が置かれていた。1565年スペインのレガスピとウルダネタがこの像を安置する教会を立てた。これがフィリピン最古の教会であるサント・ニーニョ教会である。教会は過去二度焼失し1740年に今の教会が再建された。

小さい入口で警備員の男性と女性が何かをチェックしている。教会は無料のはずなのになんだろう、と警備のおっさんに聞いてみると看板を指さす。ドレスコードの検査だった。タンクトップや半ズボンなど肌の露出が大きいと入れない。そんな話は聞いてないよ〜、だがそれもそのはず2024年10月に決められたホヤホヤの規則だった。ポロシャツや長ズボンのオヤジだったので入場できたが、若い人は気をつけよう。

タイのお寺も肌の露出が大きいと入れない。白人は肌を出した服装が多いので、近くの売店でタイパンツやショールを買って肌を隠すことになる。白人の大きなお尻にタイパンツは良く似合う。この教会でもう少ししたらパンツが売られるだろうが、神聖な場所に行くときはTPOを敬意をもって考えないといけない。

サント・ニーニョと祈る女性

エントランスを入ると広い中庭と教会の入口が見えてくる。玄関に入ると写実的な造形と生々しい色合いの迫力あるキリストとマリアの像が置かれている。

内陣は、正面に祭壇がありその背景に聖人の像が4段に並んでいる。2段目は真ん中にイエスキリストが祭られ両横に3人づつ聖人である。3段目に真ん中にセントニーニョがいて3人づつ並ぶ。4段目にも3人の聖人という豪華な祭壇である。

サント・ニーニョの像は祭壇の横に置かれ見学者の短い行列ができている。人が多いと入場制限があるそうだ。像は大きくないが人々の信仰を集めてきただけにありがたく見える。只の観光客である私の目にもそうなのだから、信者の人たちにはもっと素晴らしく見えるに違いない。

2024年から教会内は撮影になったのでこれはフォトライブラリーからの写真です

信者の席は広く、今はところどころに人が座って静かに祈りを捧げたり祭壇を見つめている。絵が描かれた天井は高く、ステンドグラスから差し込む柔らかい光と豪華なシャンデリアが照らす教会内は何とも荘厳な雰囲気である。出口に一番近い席、背もたれに後ろに立ち、祭壇に祈りを捧げている一人の若い女性がいた。その横顔は美しく白いシャツの背中から信仰の深さが伝わってくる。その姿を見ると物見遊山できている自分が少し恥ずかしい。この神聖な場所に来て良かったのか。

「キリストはいつも教会に居たわけではないよ」ロバート・フルガム氏の言葉を思い出す。「人生で必要なことは全て幼稚園の砂場で学んだ」の一章にある言葉だ。フルガム氏は神学生のとき生活のためにバーテンのアルバイトをしてしまう。飲み屋で働くことを大学に知られたら退学になるかもしれない。だが罪悪悪に耐えかねて恩師に告白すると、そう言って許した。

信仰は人の心の中にありそれを祈る場所が教会である。そして教会は信仰をする者にもしない者にも開かれている。場違いかもしれない拒否はされていない。素晴らしい教会に来てよかった。

旅の教訓 フィリピン女性は避妊が好きでないらしい

「後ろで祈っていた女性、綺麗な人でしたね」オヤジ達の煩悩は彼女を見逃さない。「夜の奔放な女性たちと信仰が篤い女性たち、どうも結びつきませんね」「会社でしかめっ面をしているオヤジがキャバクラでデレデレになるのと同じかも」「確かに僕らも矛盾を抱えてます」「あはは」何とも気が抜けた会話である。

「女性といえば、フィリピンはカソリックだから中絶は禁止です」「織田さん(仮名)は生を追究するから気をつけないといけない」厳しい信仰に生きるフィリピン女性だが、じつは避妊があまり好きでないらしい。コンドームは着けないほうが気持ち良いし、好きな人の子供だったら産んでも良い。

避妊をするのは愛してないからで、子供を授かるのは神様の御心次第である、新しい生命の誕生をコンドームで防ぐのは間違っていると考える女性が多いそうだ。フィリピン娘に迫られて陥落する日本のお独り様男性が多いのも無理はない。

「生は気持ち良いからね、そう考えるならチップを払えばやらしてくれるかもしれない。挑戦してみようか。あはは」生好きの織田さんである「子供ができたらどうするのですか」「その前に抜けばいいんだよ」教会のなかで罰当たりな話をしている。「フィリピン娘はいい子たちだね」

旅の教訓 フィリピンでもエイズが流行っている

誠に愛すべき女性たちだが、その結果HIVの感染率が高くなっている。タイのバンコクにキャベジズ&コンドームというエイズ防止を訴えるレストランがある。タイがエイズの感染爆発に見舞われたとき、閣僚の一人が街に売られているキャベツのようにコンドームを普及させようと考えて開いた。エイズを防げるのはコンドームだけなのだ。店ではコンドームが無料で配られている。

薄いゴムの袋は飛び出す3億のミサイルを閉じ込めると共にレトロウィルスを防御する、米軍の強力なイージスシステムなみの力を持つ。その語源はゼウスが戦いと知恵の神アテナに与えたあらゆる邪悪・災厄を防ぐ魔除けの盾イージスに由来する。盾は鍛冶神鍛冶神ヘーパイストスによって作られた。

夜のイージスはヘーパイストスでなく、オカモト、相模ゴム、フジラテックスなどの企業によって提供される。最も薄いものはなんと0.01ミリである。トム・クランシーの小説「中国開戦」に中国から発射された弾道弾を撃ち落とそうとするミサイル管制官が「くそっ、マン毛一本外した」というシーンがある。マン毛の太さは0.1ミリくらいだからゴムは10倍も薄い。

その極限の薄膜が、エイズになるか、父になるか、日常にとどまるかの境を分ける。情熱的なフィリピン娘が生を許してくれても、それはとても甘美な誘惑だが、妻以外の女性と接するときは神の御心でなくゴムの手に委ねよう。それが女性のためになる。

そんな事を馬鹿な話をしながら観光は続く。次は中庭を見てマゼラン・クロスである(続く)

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